「阿部を許そう」そうコチサに決心をさせたのは、今後コチサの永遠の親友となる「ニーチェス」だった。
コチサの心の傷を癒し、そしてそれ以上に人生の輝きを教えたのは莫大な数の書物と数千年の呟きを未だに活字を通して語り続ける哲学者たち、わけてもニーチェだった。
1800年代のこの偉大な哲学者は、今100年の時を経て「ニーチェス」としてコチサの中で蘇った。
コチサのこうした、人生意義的変化の前では、第1章の産婆うめも、第2章の神父さん、山田先生も、第3章の阿倍とその勢力隊も、いまでは打ち上げ花火の横でする線香花火のような存在でしかなかった。
ニーチェスは、コチサの絶対君主ではなかった。むしろ、コチサは迷えるニーチェスと共に歩み、ある時はニーチェスの弱さ、脆さを受け入れ、寛大な心でこの不世出の哲学者の過去の時代を導いてやったりした。
コチサの横には、いつもニーチェスがいた。
なぜ、土地を手放さなければいけないの?
なぜ、ゴルフ場を作らなければいけないの?
高校生になったコチサは、昼休みの憩いのDJタイムに、この問いを投げ続けた。
しかし、この学校には山田先生はいない・・・・・
高圧的な教師達により、コチサは放送室さえも占拠出来ずに排除された。
「これが1970年代だったら、まだ違った対応もあったろうに・・・」
強制排除されたコチサは、思わずニーチェスに語りかけ、
「僕たちの時代よりはましさ」
という友の言葉に勇気づけられたりした・・・・
コチサは校舎を離れ、村を歩き、某政治家よろしく靴を汚して田圃に入った。
なぜ、土地を手放さなければいけないの?
なぜ、ゴルフ場を作らなければいけないの?
田植えのおばぁちゃんたちは、屈めていた腰を伸ばし、汗を拭きながら、
「偉い人が決めたんだから、いいんだよ」
「言うとおりにしてれば、最後は助けてくれるんだよ」
誰よりも、故郷を愛し、生まれた田圃を愛したコチサはいつのまにか、こうるさい厄介者になっていた(コチサ註:作者に許可を得て、掲載後にここ書き換えました)
「そんなぁ〜」
コチサとニーチェス、二人だけの日々がまた始まった・・・・・・
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今まで見たことが無い虫が異常発生して、収穫前の米は全滅さ
途中で放り出されたゴルフ場開発地はいまじゃごみ捨て場で、異様な悪臭がたちこめている・・・
用水地の湧き水が干上がってなぁ
こんな村にも、大自然のバランスってあったんだなぁ〜
その後に訪れるバブル崩壊を予兆するように、ゴルフ場開発はとん挫した。
そして、村を襲う自然界の厳しいお叱り。
樹木を伐採され、裸にひん剥かれ、無様な姿をさらした山々が、「ゴルフ場建設予定地/関係者以外立入禁止」という看板を乳首のように立てられ、見せ物になって泣いている。
なぜ、土地を手放さなければいけないの?
なぜ、ゴルフ場を作らなければいけないの?
村人たちの頭に、コチサの言葉が去来する。うっとうしかったコチサの「なぜ」が、今、大きな意味を持って襲いかかってくる。
「なぜ」、あの時「なぜ」の本当の意味を考えなかったのか?
禅問答のような問いかけが、人々の心を駆けめぐる・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・
今、コチサは放送室のマイクの前にいる。教室には生徒たちが、校庭には村人達がつめかけ、コチサの声を待っている・・・・・
「ニーチェス、どうしよう」
否定的なことを言ったらこの人達は絶望的になるわ。
でも、変に期待を持たせても私は教祖ではない。
この人達が今求めているのは救いだ。
実体のない、偉い人の言うことを聞いていれば安心、という偶像崇拝が壊れたのだ。
だからって、私が新たな拠り所にされても、この人達に進歩はない。
放送室のモニターにテレビ画面が映っている。
マルコス元大統領が、亡命をしたのだ。テレビ画面では、アナウンサーの女性が喜びに震えながら「私も踊らせて」と涙を拭っている。
日本からのレポーター、安藤優子さんが、興奮の実況中継をしている
「この人達は戦ったのだ、そして勝ったのだ」
「ニーチェス、東京へ行こう、そして安藤優子さんに逢おう」
コチサは一言も語らず、マイクのスイッチを切った。モニターの音量をスピーカーにつなぎボリュームを上げる。
フィリピン市民達の勝利の雄叫びが、コチサの村に鳴り響く。喜びに沸く市民達と、成す術を知らず呆然と立ち尽くす村人・・・
校庭にコチサが現れる。
文庫本になって機動力を増したニーチェスを、ぎゅっと握りしめるコチサ。
無言のまま、歩き出すコチサ。
人の群が、スーと割れる。
そこを、黙って歩き続けるコチサ。
語らぬ指導者に、声も出ない村人達・・・・・・
・・・・・・・
あぜ道を歩くコチサ。もう付いてくるものはいない・・・・・
「東京へ行こう、ニーチェス」
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