・・・マルコス元大統領が、亡命をしたのだ。テレビ画面では、アナウンサーの女性が喜びに震えながら「私も踊らせて」と涙を拭っている。
日本からのレポーター、安藤優子さんが、興奮の実況中継をしている
「この人達は戦ったのだ、そして勝ったのだ」・・・・・・・・・・・・
プチッ。
ビデオを切るとコチサは、電車の網棚からもらってきた新聞を読み始めた。
このフィリピンの事件は、もう、ずいぶん昔のことに思える。
あれから、20歳になるまでコチサはニーチェスとともにふるさとで過ごした。
すぐにも行きたかった東京であるが、お父さんとお母さんが替わりばんこにぎっくり腰になっちゃって、家を出られなかったのである。
同級生たちは、恋の噂やデートの話で楽しそうだったが口を開けばニーチェス、ニーチェス、のコチサには「外国人の恋人がいるらしい」という評判が立った。
おかげで、この時期のコチサには恋愛も失恋も寄りつかなかった。
さて、やっとの東京である。
91年の春、コチサは東京上陸。
お話はそれから数カ月後のコチサ。
ちょうど、いなかから出てきた女の子が大学1年の夏休み後、羽化したみたいに変身するでしょ?
あんな感じのコチサです。
「女がアルバイトするってのは、男を作ることと同じだ!」
という頑固なお父さんのせいで、コチサはとりあえずは死なない程度の仕送りを受けていた。
しかしコチサは、自分の将来をかけて東京に出てきたのだからいろいろなことをやってみたかった。
英会話は絶対マスターしたいし、もちろん声の仕事につくための勉強もやらなくっちゃ。
そのためにはお金が欲しい。でも、これ以上の支出をいなかの両親に負担させられない。
で、コチサはお父さんには内緒で証券会社にアルバイトの口を見つけた。
(作者註・どうして証券会社でアルバイトできたか、私にはわからん)
もちろん証券レディさんのような花形ではなく、電話番や書類の整理。
マルとかナンピンとか、独特の用語が飛び交うなか、小僧のようにこき使われた。ある時はマルをOKと勘違いして殺されそうにもなった。
そして少しづつ東京の暮らしになれていった。
そう、洋式のトイレはドアのほうを向いて座るってこともわかったし。
そんなある日、お客様への書類を届けに行った帰り道にコチサは新しい都庁の前を通りかかった。
「これが都庁か!ふーん」
ビルの窓ガラスに映る自分の姿を見て、コチサは
「なかなか決まってるじゃん!東京デビュー!」
と、ひとりでポーズを決めたりしていた。
そのときである
「お嬢さん、ハンカチ落ちましたよ」
振り向くと、渋目の紳士がハンカチを手に持ってひらひらさせている。
「えっ・・・、わたしですか?」
「そう。あなたじゃないかなあ、きっと」
「ちがいます、ひとちがいですよ」
(自分のはあんなにきれいじゃないもの)
「そうですか。こりゃあ、失礼・・・しかし、とんだ恥をかいてしまった」
「いいえ」
「でも、きょうはいい日かも知れない。うん、きっとそうだ」
この紳士の語り口にコチサはつい、つられてしまった。
「どうしてそう思うんですか?」
「いえね・・・、このハンカチ、素晴らしいものですよ。そして、あなただ。あなたも素晴らしい」
紳士は、上品にほほえんでコチサの瞳を見つめた。
「お上手ですね」
「とんでもない。僕はおせじは大嫌いだ。ところで、さっき素晴らしいといったこのハンカチなんだけど、ここを見てほら、この角のところに小さくオリーブの葉が刺繍されているでしょ?」
「ふーん」
「このハンカチは、ヨーロッパで有名なTIKOSAというブランドでね。このメーカーはハンカチしか作ってないんだ。100年ほど前、社交界にTIKOSAという伝説的な貴婦人がいて、彼女が好んで使っていたので、いつのまにかハンカチの名前になってしまった。ヨーロッパではこのTIKOSA以外はハンカチとは呼ばない」
「じゃあ、これ以外はなんと・・・」
「ハンケチさ」
「そうだったんですか。でも、あなたはどうしてそんなことを」
「知ってるのか、ですか?僕はあそこのオーナーなんですよ」
と、後ろの大きなビルを指さした。そこにはブティックがたくさん入っている。
「いやあ、つまらない話をしてしまったなあ。ごめんなさいね。じゃあ」
その紳士は帰りかけ、腕時計をちらっと覗くと
「おや、ちょっと時間があいてしまったぞ。うーん、お嬢さんよかったらおいしいパフェでも僕におごらせていただけるかな?ひきとめちゃったお詫びと、それから、あなたにお願いしたいことがある」
「ええ、別にわたし急いでるわけじゃないし」
「よかった!じゃあ、すぐそこだから。実はいま秋のファッションショーにふさわしい素人さんのモデルを捜していてね・・・」
と、一緒に歩きかけた途端、横道からでてきた男二人に行く手をふさがれた。そしてその男たちはとんでもないことを言ったのだった。
「◯◯だな!詐欺容疑で逮捕する!」
紳士の腕に手錠がかかった。
「あなたも一緒に来てください。事情を聞かせてもらいます」
「えーー?」
「ヤツはねえ、詐欺で前科6犯なんだよ。指名手配中だったのだが、まさかこの新宿で白昼堂々仕事してるとは思わなかったよ。ハンカチがどうのこうの言わなかった?アレが手なんだ。特にいなかからでてきたばかりの女の子を狙う。おうちにお金があれば全部むしり取られちゃうし、なければあんた香港あたりへ売られちゃうところだった。被害は?なにもなかった?」
コチサはあまりのショックに頭がぼーっとして、刑事の言葉が理解できなかった。
いなかもの?香港?売られる?詐欺?
ひどいわ!
近くの交番で事情を聞かれ、家出じゃないことを必死に説明して、被害がないのだから両親には連絡しないことをくどいほど確認し、予定より大幅に遅れて会社に帰った。
会社に戻ると、すぐに支店長室へ来るようにとの伝言があった。警察からもう連絡が入っているのかと、ドキドキしながら行くと、なんと!そこには山のようなうどんがコチサの帰りを待っていた。
”讃岐特産”の文字が見える。
イヤな予感がした。ふるさとの海と山と、お父さんの顔が目に浮かぶ。
コチサのお父さんは、よそのおうちをたずねるときは必ず山のようにうどんを持参するのだ。
(まじーい。あれほどお父さんには内緒ってお母さんに頼んだのになあ)
「益田さんは良いお父さんをお持ちだね。さ、そこに座りなさい」
支店長はそう言うと、コチサの向かい側に座ってウンとうなずいてから、
「お父さんには、さきほどまで待ってもらっていたのですが、用事があるそうで、お帰りになりました。私は、若い頃高松の支店にいたことがあってね。お父さんといろいろなお話をさせていただきました。キモ玉焼き、上京するときご家族で食べたんだってね。私もよく食べましたよ・・・話が横道にそれちゃった」
そこで支店長は、ゴホンと咳払いをして、
「あなたのことについては、お父さん、特に何もおっしゃらなかったけれど私にも娘がいるからお父さんの気持ちは痛いほどわかる。ここから先は言わなくてもわかるね?お父さんの宿泊先を聞いておきました。このホテルです。さあ、きょうはもういいからすぐ行ってあげなさい。そして、おいしいものでもごちそうしてもらうといい」
その夜のコチサについては、多くを語るまい。
ただ、いつもよりずーっと口数が少なく、素直だったことは確かだ。
皇居・東京タワー・コチサのマンションなど案内したが、とうぜん、悪夢の新都庁には行かなかった。
「一度コチサの様子を見てきてくれってお母さんから頼まれてなあ。元気そうじゃないか。しかし、アルバイトは感心せんなあ。・・・それから、たまにはお母さんに電話してつか」
コチサは、お父さんと別れてから自分の部屋に帰り、そしていつものように「アナウンサーになるには」の本を開いた。
そこにはこう書いてあった。
- 「NHK人事部の試験担当者によると、アクセントにひどい癖のある人お国訛りがひどく、直りそうもない人、こういう声の持ち主は、アナウンサーに向いていないということで、最初の適正面談の段階でふり落とされます」
「・・・なんとかなるだろ。讃岐の猿真似だい!」
そして次に、アナウンス学校入学案内のパンフを開いた。
まったく今日は大変な一日だった。
でも、こんなことで負けてなんかいられない。
コチサは、片手を腰につけてドリンク剤を一気に飲むと
日課となっている腹筋運動を始めたのであった。
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